の様なの馨のする



◆或る日常◆

 タカトリ様へ



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 あ、という小さな叫びと共に虫の羽音のようなブゥンという音が三村信史の鼓膜を震わせた。 時は夕刻。黄昏時。何を見るともなく教室から窓の外を眺めていた信史は声の主を振り返った。 少し首を竦めるようにしてこちらの様子を伺っているのはクラスメイトの七原秋也だ。 最近親しく付き合うようになった彼。少し甘いところはあるが、機転も利くし、行動力もある。
 「三村、ごめん。動かなくなった」
 秋也は申し訳なさそうな声でそう信史に告げた。何があったのだ、といぶかしみつつ、 嫌な予感を胸に抱いて歩み寄る。椅子に腰掛けた秋也の目の前に置かれているのは信史のノートパソコンだ。 それは信史が、亡くなった叔父に貰った物だった。多岐に渡る知識や様々なソフト、 その他に信史には意味の分からない、しかし叔父にとっては重要であったようなデータ等、 沢山の物がハードディスクに収められている。こんな大切そうな物を俺なんかに呉れても良いの、 と叔父に問うと、お前だからやるんだよ、と返された時の幸福感は今でもありありと思い起こすことが出来る。 ノートパソコンを持っている、と言うと目を輝かせて触ってみたいと言った秋也の為に、信史は今日、 わざわざそれを持ってきたのだった。見られて困るようなデータにはパスワードもかけてあるし、 第一、触るのは自分と秋也だけだ。特に問題は無いだろう、と思ったのだが。
 ディスプレイを覗き込む。ブラックアウトしていた。信史は急いで幾つかのキィを叩いた。しかし何の反応も返さない。 強制終了のコマンドも受け付けない。無理矢理電源を切り、もう一度立ち上げようとしても無駄だった。 ほんの僅かの間、目を離した隙に、信史のパソコンは役立たずの箱となってしまった。
 「七原、お前何したの」
 尋ねる声にほんの少し怒りが滲む。信史にとって大切な物であるだけに、抑えようとしても抑えきれない。 これが叔父に貰った物でなかったなら、ここまで腹が立つこともなかっただろう。 しかし秋也は、このパソコンが信史の手に渡るまで誰の物であったかを知らないのだ。だからこの怒りは、 本来なら秋也に向けられることは筋違いだ。そう、理屈では、分かっているのだが。
 「何って。何もしていない。普通に触ってたら急にこうなったんだ」
 少し俯いて言葉を紡ぐ秋也。頬に影が落ちる。
 「何もしてなかったらこうなるわけがないだろう」
 思わず厳しい口調で詰る。叔父に関する事だと、どうしても平静を欠いてしまう。信史の憤りを感じ、 秋也はもう一度、ごめん、と呟いた。だが秋也にも、何故こうなってしまったのかよく分からないのだ。 信史に教えられた通りにキィを叩いて遊んでいた筈なのに、突然動作がおかしくなったのだから。
 しかし、詳しい経緯までは分からなかったが、このパソコンは信史にとって重要なものであることに、 秋也は何となく気付いていた。思い入れのある素振りは特に見せはしなかったが、雰囲気で察知できない程自分は馬鹿ではない。 だから余計に申し訳なかった。信史は口には出していないが、普段の言動から考えて、 これは彼の話によく登場する、彼の叔父に関する物ではないか?もしそうならなおのこと悪い。 彼の叔父は、もう、いないのだから。秋也は謝るしかできなかった。 自分一人が操作していた時におかしくなったのだからこれは自分のせいだ。 折角信史が、自分の為に持ってきてくれたというのに。

 暫くの沈黙の後、信史は小さく溜息をついた。目の前には相変わらず俯いたままの秋也。 髪に隠されてその表情は分からないが、肩が、僅かに震えているのが分かる。 自分の口調がきつくなり過ぎたことは自覚していたので、その結果を目の当たりにして、少し、心が痛んだ。
 「……もう、良いよ」
 投げやりな言葉に聞こえてしまわぬよう、細心の注意を払って、信史は秋也に告げた。
 「でも、大事な物だったんだろ」
 反駁する秋也の声。自分の言葉に疑いを持たぬその口調に、信史は驚く。 特に何も言ってはいなかったのに、気付いていたのか、彼は。  春になり雪が溶けるように、すうっと消えてゆく、先ほどまでの怒り。
 「良いって。データのバックアップはうちに取ってあるしな。パソコンなんて、また買えば良い。 もうこの機種も性能、古くなってたから、ちょうど買い換えようと思ってたところさ」
 信史は嘘を付く。バックアップなどどこにも無い。しかし叔父の残した物はほぼ全て自分の頭の中に残っている。 そのことは誰にも壊しようがない。それに形のある物は、いずれ壊れゆくと相場が決まっている。だからもう、良い。 それよりも目の前の彼の方が大切だ。何も言わなくても、自分を見抜く、希有な眼の持ち主と自分との関係。 まだ付き合いの浅い分、こちらの方が壊れるのは簡単だ。現に今の状況。しかし今なら、まだ。
 「七原」
 未だ面を上げようとしない彼の頭の上に、そっと手を置いて、名前を唇に乗せる。
指に柔らかく絡む、色素の薄い髪。そのまま軽く、後ろに引っ張った。秋也は逆らわず顔を上げた。
 「ちょっと言い過ぎたよ。悪かったな、七原」
 思いつめたような色を湛える秋也の瞳を覗き込んで、信史はからかうように云った。張りつめていた瞳が揺らぐ。
 「こっちこそ、ごめん。お詫びに俺に出来ることなら何でもするから」
 信史の視線を受けて、秋也もちょっと微笑む。目の前に立つ彼の気の使いようは、短い付き合いだが既に理解できている。 今も自分のことを気遣ってくれているのだ。なら騙されていてあげよう。
 「何でも、か。じゃあ今度新しいパソコン買いに行くの付き合ってくれ」
 「オーケイ」

 二人は顔を見合わせて、笑った。


◆END◆  

 
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◆お気に召されたら幸せの極み◆



 
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