「胡蝶の夢」



「これは本当の事なの」
 唇の端にほんの少しだけ悪戯めいた笑みを浮かべ、彼女はそう言った。 それは彼女の癖なのだ。嘘を付く時、彼女は何時もその表情を見せる。 しかしあたしは言及しない。偽りを述べていると解ってはいるけれども敢えて問わない。 何故なら彼女が望んでいないからだ。してやれることは騙された振りをすること。 あたしが気付いているという事実を彼女自身に悟られることの決して無いよう、 全てを信じた素振りを見せる。
「本当なのよ」
 空想癖のある彼女。虚言癖のある彼女。白昼夢と現実は彼女にとっては同義のようだ。 それならばこちらが合わせてやれば良い。彼女は砂糖で出来た優しい綿菓子のようなものだから、 柔らかく包んでやらなければすぐに潰れて溶けてしまう。 いっぱいに空気を含んだ綿のような甘い菓子。空気の代わりに幻を一杯に抱き、 夢を喰んで生きている。壊すことなど造作も無い。 握り潰せば全てがお仕舞い。崩れてお仕舞い。
 熱でねっとりと溶けて行くが如く、外的環境が少しでも厳しくなれば、 彼女など、確実に適応出来ずに崩れるだろう。 そんな脆さ、危うさを隠さない彼女をあたしは愛している。 あたしの力の及ぶ限り、守ってやろうと、思う。
「ねえ、聞いている?」  焦れたような口調。視線を向けてくる。少し尖らせた唇で不満げに言葉を紡ぐ。 勿論、と微笑みかけると安心したように軽やかに笑った。 あたしの言葉にまるで疑いを持たないのだ。勿論疑われるようなへまなどしないけれど。 それにしても真っ直ぐに、見つめてくる黒曜石の双瞳。 自分が嘘をつくことはあっても、あたしは絶対にその様なことをしない、と、 本気で思っているのだろうか? もしも彼女に、気付かれるようにわざと嘘を付いたとしたら、 彼女はどういう態度に出るのだろう。ふと気になって、彼女を眺めた。
「なあに」
 鈴を転がしたような軽やかな声が耳に心地よく響く。 滅茶苦茶に傷つけて、その声を掠れた泣き声に変えてやりたい、 と衝動的な破壊願望が頭をよぎった。それはひいてはある種の自虐だ。 それによって彼女との関わりを確かめることが出来る。決して幸福な関係では無くても。
「ねえ?」
 眺める視線が気になるのか、彼女はかすかに身じろぎした。 あたしが何か言うのを待っているのだろう。気になる様子であたしを窺っている姿が、 まだもう少し何も言わずに眺めていたい程可愛い。 つと手を伸ばして彼女の頬に触れる。白桃の頬。しっとりと瑞々しく、ふわりとした感触。 彼女は驚いたように少し身を震わせた。しかしあたしの手を払いのけようとはせずされるがままだ。 あたしはそのまま顔を寄せ、頬にそっと接吻した。
「ごめんね。本当はあたし、あなたのこと大嫌いなのよ」

 彼女は一瞬目を見開いた。大きな瞳がこぼれ落ちそうだった。 しかし次の瞬間にはもう、彼女はいつものように柔和な微笑みをあたしに向けていた。
「これは夢ね」
 微笑みを張り付かせたまま、静かな、しかし断固たる口調で彼女は言った。

 ああ、彼女の世界は彼女自身の虚構で出来ているのだ。そう、思った。 あたしや他の人達のように、彼女は現実に縛られてはいない。いや、むしろ彼女にとっては、 彼女の創り上げる虚構そのものが臨場感溢れる現実に他ならないのだろう。 例えあたしにとって紛れもない現実であろうとも、彼女が認めなければそれは虚構。 逆に彼女が認めたものはどんなフェイクであっても紛れもない本物なのだ。 彼女は彼女だけの王国に住んでいる人間なのだろう。 壊すのは簡単だ、と思っていたのは間違いだったのかも知れない。

 それ以前に、彼女は本当にこの現実に存在しているのか?



 ……気が付くと、あたしは一人で佇んでいた。 さっきまで何をしていたのかまるで思い出せない。 けれどそんなことなどどうでも良い。 それよりも、早くクラブ用の原稿を書かなくては。 テーマはもう与えられているのだが、 さて、何を書こう?




<終>  















★2000年10月22日発行、metamorphose文芸部誌第2号用小説。10月20日脱稿。
因みに当号のテーマは「ノンフィクション」でした。
虚構でないモノ、の定義とは?夢と現の境って?……なぁんて。


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