「虚構の街」



 泥の様に澱んだ空気の中を、あたしは歩いていた。やたらと派手なネオンや、 鳴り響いている音楽が鬱陶しい。うっすらと躰も汗ばんでいて、それも気持ちが悪くて嫌だ。 でも、家に帰ろうという気は起こらない。嫌いなのだ、家が。
 家。あたしの家族と呼ばれている人達。「血」が繋がっているというだけで、 どうして盲目的に信頼できようか。あたしの世界はあたし自身とそれ以外で出来ていて、 家族も当然「それ以外」に含まれている。決して「あたし」と同一じゃない。 そこの所をもう少し理解してくれているなら、まだ付き合っていられるのだけれど。
 暗い空に明るすぎる地上。都会の夜。雑踏。行き交うのは沢山の知らない人達。 でもその人達にとっては、あたしの方こそ見知らぬ他人。 そう考えるとなんだか可笑しくて、一人、思わず笑ってしまった。 何事かとこちらに向けられる幾本かの視線。それも又可笑しい。笑いすぎて目に涙が滲んだ。 息が出来なくて、苦しくて大きく喘ぐ。涙のせいで歪んだ街。 それともこちらこそが本当の街の姿なのか。
「レン」
 再び歩き始めたあたしを、後ろから誰かが呼び止めた。振り返らなくても、声で分かる。
「偶然、アリサ」


 アリサはあたしの親友だ。肉感的な躰の美女で、ベリィショートの髪を茶色く脱色している。
「ほんと偶然」
 ハスキィな声。彼女はその声を発した唇に煙草を咥え、火を付けた。
「どっか行くの?」
 あたしは尋いた。アリサはあたしと違って、特に理由無く街をうろつく様なコじゃないから、 何故こんな所にいるのか気になったのだ。
「まぁね」
 アリサは煙を吐いた。あたしは顔を背ける。嫌いなのだ、煙草が。 あんな物のどこを気に入って求めるのか、あたしには理解できない。でもアリサはあたしじゃないから、 やめろとは言えないし、だいたいアリサのする事に異議なんて唱えられない。 だからあたしが顔を背けるのは、あたしに出来る唯一且つ精一杯の抵抗なのだ。 アリサはからかう様に口を開いた。
「まだ駄目? 煙草」
 あたしは言い返す。
「死ぬまでやんない」
 アリサは笑う。艶やかな笑み。赤い唇。
「ところでさ、どこ行くのよアリサ」
「知りたい?」
「別に」
「デ・エ・ト」
「本命?」
「そ」


 アリサには沢山男がいた。殆ど皆、アリサの外見で寄ってきた輩だ。 アリサはそういうのが嫌いじゃないらしく、適当に付き合っていたようだった。 でも最近、そういう事は止めるのだと聞かされた。アリサ本人から。 なんでも本命が出来て、追いかけているそうで。
「良かったじゃん、オトしたんだ」
「当然・・・でもないけど」
 又にっこりと笑うアリサ。嬉しそうでこっちも嬉しいけど、でも。
「どんな人・・・名前は」
「ヨシキ。体格良くてさ性格も良くて、格好良いんだ」
「ふぅん」
「レンのおかげだよ、色々協力して貰ったし。ありがと」
「いえいえ、代返やノート位、いつでも」
「ほんとサンキュ、レンの時はちゃんとこのアリサさんが手伝うから」
「気にするな、この前アリサには昼奢って貰ったし・・・待ち合わせ?」
「そ。すぐそこ」
「遅れんなよ」
「遅れるかよ」
「ん。じゃ、がんばれアリサ。大好きだよ」
「あたしも愛してるよレン、ヨシキの次に」


 駆けて行くアリサ。ヒールの音はすぐに、周りの雑音の中に消えた。残ったのはあたしが一人。
「愛してるよレン・・・って、分かってないんだよな」
 呟くのは誰に聞かせるでもない愚痴。
「ヨシキ、か」
 あたしの大事な親友のカレシ。
「レンのおかげ、か」
 アリサのすることに、あたしが協力せずにいられるものか。 アリサにはいつだって、幸せであって欲しいのに。
「レンの時、か」
 そんなの、これまでもこれからも有り得ない。
 あたしは又、ゆっくりと歩き出した。暑い。左手で、汗のせいで額に張り付いた髪を掻き上げる。 笑ってもいないのに、何故か、又街が歪んだ。一体あたしは、どうしたのだろうか。 アリサが幸せでいてくれて、凄く嬉しいのに。暑い。滲んだ汗は流れて目に入る。 そのせいで、ますます街はいびつな形に変化する。あたしは乱暴に、目を擦った。


 あたしには友達がいなかった。小学校の頃。虐められてたとかそういうのじゃなくて、 ただ、無いものとして思われていた。いてもいなくても分からない、そういう子だった。 先生すらも例外じゃなかった。だからあたしはいつも、 本当はこの世界にいないんじゃないかと自分の存在を疑っていた。
 中学に入って、アリサに出会った。アリサはあたしと正反対の子で、 常に注目を集めずにはいられないような、そんな感じだった。あたしは彼女に惹かれた。 多分あたしは、アリサの「存在の強さ」に憧れていたんだと思う。 あたしが存在感のない子だったから。だからアリサが話しかけてくれた時はとても嬉しかった。 初めは彼女とは単なるクラスメイトの関係だけだったけれど、そのうちに「友達」になれて、 本当に嬉しかった。高校が偶然同じになったと知った時も、 大学までもが同じだと知った時も嬉しかった。長い付き合いで、 彼女を親友と呼べるまでになったことも。アリサといる時だけ、アリサに関わっている時だけ、 あたしは楽しかった。あたしは存在していられた。あたしは生きていられた。 あたしの大切なアリサ。あたしの大好きなアリサ。アリサのする事をあたしは止められない。 アリサが幸せでいてくれると、あたしは嬉しい。でも。


「死のうかな」
 アリサはあたしのアリサじゃない。今までだってそうだけど、今からはそれ以上に。
 アリサがいなければ、あたしは此処に存在できない。それにそもそも、死ぬことは別に、 大層な事じゃない。アリサに初めて出会うまで、あたしは死んでいるも同然だったのだから。
「死んだら、泣いてくれるかな」
 親も兄弟も泣いてくれなくて良い。彼女さえ泣いてくれるなら。
「死んじゃお」
 あたしは鞄の中を探った。ごちゃごちゃと入っている色々な物の中から、銀色のケースを取り出し、 中身を一つ、口に含んだ。懐かしいストロベリィ味の、甘い毒薬。 ドロップとも言うかもしれない。
あたしは目を閉じる。毒が口の中で、完全に溶けるまで。そしてその後、自販機で煙草を買った。 あたしはもう毒を飲んで死んだのだから、煙草だって喫うのだ。封を切り、 鞄の中に埋もれていた、どこかのレストランで貰ったマッチで火を付ける。
 初めての煙草。思い切り吸い込んだら、肺に煙が流れ込んで酷くむせた。 苦くて息が出来なくて、苦しさの余り涙が零れる。やっぱり煙草は嫌いだ。涙が止まらない。
 あたしは街の中を一人、笑いながら歩いていた。














★書いたのは確か1997年に入って直ぐ……だった筈。
……た、多分。ごめんなさい曖昧で覚えてません。調べるの面倒なんだ許して。
卒業なさる先輩を送る為の記念本、通称“鎮魂歌本”用の原稿。
どうでも良いが毎年鎮魂歌な訳ではなく、その年々によって、
“狂想曲本”とか“夜想曲本”とか適当に名称は変わっていた。意味はあるのかは謎。
確か、この話を書くに当たって、初めて「あたし」という一人称を使いました。
どことなく若さ故の軽薄さを持った、けれど儚い、
という風に、語り手を印象付けたかった……ような(憶測かい自分のことだろ)。


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